純愛・恋信人(恋人に信頼される人)。
僕はこれらの概念に注目し、それを目指してきた。
しかし、子どもがいない状態での純愛や恋信人など、フィクションでしかない。
子がいない状態で、どんなにこちらが犠牲を払って一人の異性を愛しても、片方は他の異性に目移りしてしまうなんてこともある。
これは僕も同じだし、女の子でも同じだと思う。
1. 「ストック」や「セフレ」という言葉から、雄雌の本性が分かる
人間も動物で、人と動物にきっぱりとした境界なんてない。
人の行動の背景には、「生殖」が関わっているのであり、「子どもなんていらない」という人がいるが、そんなわけはない。
また、人はどちらかというと、雄雌両方とも一人の異性を愛するようにできていない。
オスは自分の精子を多くばらまくことが最大の目標であり、メスは良い男の遺伝子を持った子を、ただ優しい男に育てさせようとする。
「ストック」「セフレ」なんて言葉があるけれど、これは、女性は1万年前、一人で外を出歩けば他のオスに強姦されたり獣に襲われたり、一人では生きられない。
だから、そばに男を置いていたメスのほうが生き延びられたという話で、オスも同様だ。
このように、メスは好きでもない男を傍に置くという現象が、人間でも見られる。
また、オスも生殖できれば、正直、「若くて生殖できそうなメス」ならどれでもいいのであり、たまたま近くの土地にいたメスに求愛し、子を作ろうとする。
オスも、生殖のためなら好きと言う感情は必要がないので、下半身を満たすためにメスを傍におく。
2. 昔はできちゃった婚があたりまえ
このように、僕が目指した純愛・恋信人なんて夢見るまぬけが口にすることだ。
フィクションの世界に生きていた自分が恥ずかしい。
純愛なんてそれはただ純らしく見せようとした虚愛であって、「あなたのことを一生愛す」なんて子がいない状態で、ほぼ嘘に等しい。
それを細かく見ていくと、純愛という空約束をパートナーに結び、女は無意識にさらに強い男を求めて身体に熱を帯び、男は近くにいるタイプな女の、胸の先や布下などを想像して夢想にひたる。
しかし、子がいる状態では、純愛・恋信人というものが成り立つ。
一万年前、私たちもサバンナで歩き回っていた。
そこで2人の異性が出会う。男は女に求愛し、それが無理なら骨盤を閉められ、OKサインがでれば事にいたる。
そこで子供が誕生すれば、それは「純愛と言う名の空約束」は、お互いにリスクが高い。
生殖できたとしても、生まれた子どもが大きく育たなければ遺伝子なんて残らない。
だから、お互いがあくせくして資源を子どもに与え、大きくなるまでは面倒を一緒に見る必要がある。
このように、現代の人間も1万年前の毛深い、欲に忠実な生き物という見方をすれば、何年も付き合って子を作る言うより、子ができてから長期的な関係を結ぶ「できちゃった婚」が自然なのだ。
3. 身体を抑えすぎるのも健康に悪い
このように、恋信人修行や純愛を捧げるために頑張っていた過程で、このように気づいた。
「純愛」が美しく見えるのは、それがフィクションだからなのだ。
そして、子がいない状態で、身体的・精神的な浮気をせずに、ひとりを愛し続けるなんて、そんな人は浮かばない。
例え、それが純愛に見えていても、片方がポルノを消費していたり目移りしていたり「精神的な浮気」を繰り返していると思う。
偏見だが、これが生物に人間を当てはめる僕の視点で、半分当たっていて当たっていないような仮説だ。
だから、子がいない状態での恋信人・純愛なんてフィクションに身を捧げるんじゃなくて、僕は本来のやりち〇(普通の恋愛だけでなく、わんないと、せふれ、視聴者との××など、本当に最低なクズ男なのだ!、そんな男が子どもがいない状態で恋信人になれるはずがない)に徹すればいいのではないかと開き直った。
あと、やりちんに近寄ってくる女と言うのもやりまんである可能性が高いという経験則もあり、それは現実でもコンテンツの消費者でも、結局似たもの同士がくっつくということなのかもしれない。