これは、自分おこし 狂華編 の一部を、心理学関係者に共有したいと考え、公開したものです。
・霊長類と過干渉
「過干渉」
この言葉を聞き、自分の家族が思い起こされる。これは、岡田尊司さんの本に書かれている言葉で、一般的にいれば「口うるさい」や「口出しが激しい」親ともいえる。それが度を越して、子どもの心身に悪影響を与える状態を「過干渉」と言うのだろう。
まず、この言葉を聞いたとき、なぜ過干渉が起こるのかを、生物学的に考えなくてはならない。たとえ、「うちの親は過干渉だ」と責め続けたところで前に進まない。
「人は食べられて進化した」という本には、霊長類の特徴があげられている。その一つに、「他の種よりも、比較的長い時間をかけて、親が子に文化(生き方)の継承をすること」とある。卵を数百産む動物もおり、それとは対照的に、霊長類の人の子どもは少ない。
そのため、数少ない子どもに長い時間を投資して、「生き残る術」を教えるという戦略を霊長類はとってきた。人は昔、狩りをする側でなく、狩られる側であった。「あそこは危ない」「こんなことをすれば痛い目に合う」「あそこの土地に資源や食物が多くある」という情報を血縁で共有することで、サバンナでの生存率と生殖可能性を高めるために、霊長類は子孫に接してきた。
ここで、現代の「過干渉」に話を戻す。僕の考えでは、現代の過干渉とは、霊長類の子孫をより多く残そうとする戦略と、環境情報(人の周りにある、生存・生殖に関する情報)の急速な変化が合わさって生じていると考えられる。
・急速な環境情報の変化
他の霊長類を見てもらえば分かるが、彼らは子孫ともにそこまで急速な変化は見られない。一方、人間は、1万年前の狩り(400世代前)から農耕、そして現代は多様化された分業に身を置き、生計をたてている。
生物として生まれてきたから競争の目は避けられず、同一の種とパートナーの獲得を争う。また、昔は捕食者から逃げるといった、生存率を高める行動が有効に作用したから、現代の私達にもそれらの特徴が受け継がれている。
まず、霊長類は子どもに長い時間をかけて「教育」や「子育て」という名の、自分の孫を最大値にすることを目指す行いをする。
そこで、現代は急速な環境情報の変化が大きすぎて、ある親子間では「過干渉」という名の、逆に子どもの心身を傷つける行いが生じている。
例えば、過去にある仕事で財を成し、十分な仕事の収入を得て、または、よりよいパートナーを見つける術を鍛えて、子どもを育てた人がいるとする。
霊長類的には、同様の方法で、長い時間をかけて子どもに教育をすることで、その子どもにも同じ方法で子孫を残してもらおうとするだろう。
それは、あまり急速に、環境情報が書き換わらない自然の生活ならば有効となる。
自然の中では、「あそこがいい狩場だった」「このように逃げたら捕食者から逃れられた」「パートナーの獲得にはこうした」という情報は、長年共有しても効果を発揮する。それは、大規模な気候変動などがなければ、次世代の子どもも有効な情報として使える。
一方、現代の環境情報はどうであろう。昔の成功方法は、今はだれでもテクノロジーによって共有できる普遍のものであるし、過去の成功はその背景に法律や制度の存在があり、現代ではもはや存在しなかったり改正されていたならば、上からの世代から教えられる「有効な情報」は全く役に立たない可能性もある。
このように、環境情報が急速に変わる現代の人の子育てでは、霊長類的な子孫への接し方が逆に意味をなさないこともある。「その考え、今では通用しないよ」と。しかし、親子のオキシトシンの作用によって、自分の有効な情報を子孫にも共有しようとする行いは避けられず、それが子どもにプラスに働くこともあるし、マイナスに働くこともある。
・柔軟性
かといって、過干渉な家族というのは、どこにでも見られるものである。霊長類的な子育てが「過干渉」と子どもの主観では嫌悪されることがあるが、「親子との仲が良好」という家族もいるのだ。
そこで、現代の環境情報における霊長類的な子育てが「過干渉」と子どもに捉えられる要因を探してみよう。
僕の意見としては、「親側の限局的な背景、固執性」と捉える。
例えば、僕の家族はある一定の職種の人が多い。それは、いとこなども。すると、それで過去に生計を立て、子どもを育ててきた家族は、自分の子にも同じ職種にさせることで自分の孫の数を最大化しようと試みる。
しかし、その職種は過去にはなかったものであるし、子どもの特性とのミスマッチが起こる可能性が高い。
そうなると、子ども側がSOSを発したり、かといって親側も必死に自分の有効な情報を共有するのに必死となって、互いが辛くなるばかりである。
一方、家族が多様な生き方や、職種、知り合いがいて、それで子孫を残してきた姿を見聞きしていれば、子どもの様々な行動にも「いいんじゃないか」と、自分の持つ有効な情報の幅が広いがゆえに、応援できる。これだと、子どもは自分の特性を活かした得意な方略で生きることができ、過干渉で潰れてしまうよりもいいだろう。これが、子育てにおける柔軟性なのではないかと、個人的に思う。
・思索
まず、過干渉をしてしまうことは、「血が繋がっている限り」「霊長類である限り」なくすことはできないと言える。
しかし、霊長類的な子育てを良い方向に作用させるには、多くの分業を親や子自身が体験し、そこで生きている人と触れ合う場を多くつくることが必要ではないだろうか。
現在の僕の取り組みとして、それぞれの地域にある体験教室やイベントを子どもに繋げる活動をしていく。また、その地のイベントを体験し、「このような子には~が向いている」という、「うちの子には~させる」という理想から始まる子育てでなく、「うちの子は~な感じだから、こーいう生き方がいいのかも」と子どもの特性に応じた子育てができるのではないかと考えた。これは未だ机上の空論であり、活動していく。
今の課題として、教育の場としては優良であるが、「多くの価値観や生きざまを持っている大人と触れ合える機会が少ない」閉鎖的な学校という場へのアプローチを考えている。僕自身、S先生に会わなければ大学で心理学を学ぶこともなく、出会ったのも学校の外である。
中では、大人と子どもという対立構造が無意識に形成されていて、それは僕が大人に反抗しやすい特性でもあったが、総合学習の時間のみでは、生き方の多様さを感じてもらえないと感じている。
しかし、僕が立川市の拡散的思考のボランティア(自分にとって面白そう・好きな活動)によって自分の特性に気づいたり、悩みを持っているときにそれを解決できる大人に繋げるという「その子が必要としている社会資源・サポートに適切に繋げる活動」が、今後これらの課題の糸口になる。