現在、人生で一番非合理的な行動ばかりしている。
一人の女性に溺れ、携帯を電源オフにしなければ狂ったように何度も確認してしまう。
院試勉強中も、勉強もせず頭の中に浮かんできた文章を書き、好きな作家の文章にのめりこんだ。
年収、偏差値など、社会で求められている数を無尽蔵に増やすためには「合理的な行動」のみをしていればよい。
年収や偏差値を上げるような行動の頻度を増やし、それを妨げる非合理的な行動を生活から排除する。
高校や中学でテストの点数といった高い数を追い求め、終わりのない無尽蔵な頑張りを繰り返す。
数を追い求めた結果、どんな数を達成しても、再び新たな数の虜になる。
数を追い求める過程で諦める人がいるからこそ、たくさんの数を持っている人が称賛される。
しかし、「諦める」とは恥のように思われるが、身体を守るための賢い選択だと言える。
その賢明な判断ができなかったからこそ、僕は壊れたのだ。今までの自分への無作法な行動によって刻まれた古傷が、今もキリキリと痛む。
「壊れる」とは、自分の能力よりはるか上の目標を設定し、身体が発するSOS(今思うならば、ヘルペスや身体の異常なかゆみ、朝起きた時に新鮮さがなかったり、物事へのやる気の低下)をもみ消した人の末路だ。
僕にとって「合理的な行動」は身体を蝕む自己破壊的な行動になりうる。
目標に縛られ、それを達成するために合理的な行動を繰り返し、疲れを癒す娯楽や人間関係を断ち切る。
大切な友達から「お前の“努力“はいろんなものを犠牲にしているよね」と言われ、また、中学や高校で身体がボロボロになった瞬間、今まで自分を合理的な行動に駆り立てた何かがプツンと切れた。
数字をパチパチと入力されて求められた数を算出するだけの計算機みたいに、数字のみで動く人生なんて歩みたくない。
今まで自分を狩り立てた追い風に、反旗を翻した。
それから、合理的な行動ばかりでなくそれとは正反対の行動ばかりをするようになった。
それは、一種の社会や親への反発とも言えるし、個を殺しレールの上を歩くだけの人生はやめた。
非合理的な行動をあげればきりがない。
大学院入試に向けた勉強中も一人の女性を愛し、今も彼女のすべてを知りたいとばかりに、片時も離れずに家にころがりこんでいる。
アルバイトで目に見える成果をもらってくれば良いのに、Youtubeで動画を作りブログで文章を書いてばかりいる。
今の社会は「合理的な人間」を求めているように思う。その一方でコミュニケーションスキルを持つ人材を求める。
与えられた課題は淡々とこなし、人との対話では人間味あふれる人材が優秀とされる。
このような、課題を機械的に何でもこなす感情豊かな人間を求めるのは矛盾していないだろうか。
少なくとも、僕は合理的な選択をし続けられる側には行けなかった。
学校には毎日通って、平常点という名の「合理的な行動の積み重ね」ができなかったし、授業中もじっと座って目上の存在に反抗することなく生活するという単純なことさえできない。
合理的な行動をすべき理由は分かる。しかし、それを身体が受け入れてくれないのだ。
だから、今日も僕は非合理的な行動をし続ける。
身体の中にある労働力を現金に換金することや、世間で望ましいと言われる行動を見ないようにうつむく。
ひたすら文章を書き殴り、過去の自分が消費するだけの動画を作り、自立せずに愛する人に甘えまくる。
このような非合理的な行動のみを積み重ねていくのだ。
しかし、今までしてきた自分の非合理的な行動が、それを続けるうちに誰かのためになる「合理的な行動」になっていると気づく。
それは「ありがとう」という華々しくも飾り気のない言葉によって、自分の非合理的な行動が、合理的な行動へと昇華する瞬間が訪れる。
それは、非合理的な行動にも真摯に取り組み、自分の持つ勤勉性を全力でそのことにつぎ込んだ結果だ。
自分の文章を読み共感してくれる人、動画を見て感謝の言葉を与えてくれる人がポツリポツリと現れる。
だから、これからも周りの大人から抑圧されてきた「非合理的な行動」を飽きることもなく、「合理的な行動」と気づかせてくれる人が現れるまで、自分が満足するだけの文章や動画をひたすら生み出していく。